2024年 カレンダー京の山景色

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桓武天皇は延暦13年(794)、三方を深い山々に囲まれた盆地を新都に定めた。それが平安京である。山は天然の要塞としての機能を有するとともに、そこで暮らす人々の日常を潤してくれる。日々使用する薪炭の供給から、生活に欠かせない清らかな水まで、山は生活の原点を支える、なくてはならない存在なのだ。
山はまた、人々の信仰の対象でもあった。前近代において、日本の名だたる山々はすべて神仏が住まう霊山であり、一般の民がおいそれと入り込めるような場所ではなかった。人々の山に対する畏怖の念は、修験道という神仏習合の信仰として結実してゆく。それが日本の山岳信仰の基盤となり、やがて各地でいくつもの修験が形成されていった。関西では葛城修験や大峰修験、熊野修験、東北では出羽三山修験、また西日本では四国石鎚修験、九州英彦山修験などがよく知られている。

平安京を取り巻く山々では、東の比叡と西の愛宕が古より雌雄を競ってきた。両山はいずれも山岳信仰の拠点となる霊山である。京都には愛宕山と比叡山が背比べをしたという昔話が伝えられている。実際には愛宕山が標高が70mほど高いのだが、負けた比叡山が悔し紛れに愛宕山の頭を叩き、それで愛宕山には瘤ができたという。山同士の背比べの話は、他にも多く伝えられているが、その背景には、双方の山岳修験勢力の競い合いがあったことが想像できる。
伝教大師最澄は、延暦7年(788)に比叡山に一乗止観院を建立して修行道場を開いた。それが今日の延暦寺の起源である。延暦寺は日本仏教の根本道場として、平安期以降仏道修行の場であるとともに、学問研究の拠点とされてきた。後に鎌倉新仏教を開いた法然や親鸞たちも、若い時期に延暦寺で修業をした経験を持つ。また天台密教は1100余年にわたり、日本仏教の中心としての地位を築いてきたのである。
一方、愛宕山は8世紀初頭の大宝年間に、修験道の開祖とされる役小角と加賀白山を開いた泰澄によって開かれたとの伝承を持つ霊山である。今日の愛宕神社は全国各地にある愛宕社の総本宮として、多くの人々から火伏せの神として尊崇されている。平安時代に修験系の寺院である白雲寺が建立され、以後この寺が愛宕山の実権を握ってきた。中世には愛宕権現太郎坊とよばれる天狗が住む山と考えられるようになった。一方その本地仏として勝軍地蔵が祀られた。この地蔵を尊崇する者は戦で勝利を得るといわれ、戦国武将たちにその信仰が広まった。特に天正10年(1582)5月に明智光秀が愛宕山へ登り、連歌会を開催して主君信長を討つことを決意したのではないかという逸話は広く知られている。近世に入ると、愛宕は一般庶民の間では竈に祀られる火の神として信仰を集めるようになる。その背景には、徳川政権の成立によって戦国の世が治まり、平和が訪れたことから、戦国武将たちによる寄進が大幅に減り、白雲寺が存続の危機に立たされたのではないかと考えられる。そこで愛宕山の修験者たちは、修験道と元々なじみの深い火を自在に操る技に依り、庶民に火伏せの信仰を流布するために、家々の台所で火伏せの護符と愛宕の神花である樒を祀ることを勧め歩き、やがて京の都を中心に、愛宕山に代参して火伏せのお札と樒を各戸へ配布するという慣習が広まっていったものと思われる。その信仰は現在まで生き続けている。

また少し時代が下るが、比叡山の南に位置する如意ヶ岳、通称大文字山も、京都の人々にとってなじみの深い山である。京都では、8月16日に盆の供物を夕刻に鴨川へ流し、それによって先祖の霊を送ることが習わしとされてきた。そしてその頃には、京都盆地を取り囲む山々に送り火が灯される。送り火といえば、誰もが知るのは大文字である。五山の送り火を代表し、かつ歴史的にもっとも古いのは大文字だ。中腹に設けられた火床からは市内が一望でき、さらに三角点がある山頂からは遠く大阪の高層ビル街からあべのハルカスまで望むこともできる。まさに多くの人々にとっての憩いの山でもある。送り火の成立時期は定かではないが、はっきりと文献に登場するのは、慶長8年(1603)の『慶長日件録』という公家の日記が初見とされている。つまり送り火は、近世以降に大文字を皮切りに次々に作られて、それがやがて古都の盆を美しく飾る火の風流行事として定着していったのである。

京に暮らす人々にとって、町を取り囲む山々は神仏が鎮座する聖地であり、また死者たちが憩う浄土でもあったといえよう。山は人々に四季の移ろいを伝え、恵みの清らかな水を供給し、さらにそれを眺める人を無我の境地へと誘う、祈りの場でもあった。京の山々は悠久の時を超えて古都を護り、そして多くの人々の命を育んできた。それは、これからも変わることなく、未来へと続く歩みであることは間違いない。

文:八木 透

表紙:愛宕山

「伊勢には七度、熊野へ三度、愛宕山へは月詣り」―― 山頂の愛宕神社に火伏せを願って、京都だけでなく、全国からお参りの人たちで知られる愛宕山。ことに八月一日午前零時におこなわれる通夜祭には、嵯峨の鳥居本から山頂まで人、人、人の列が続きます。この日のお参りは「千日詣」と呼ばれ、一日で千日の参拝に匹敵するといわれ、参拝者は火災除けの御符と、樒の枝をうけ、家に持ち帰り祀ります。

 

1月・2月:稲荷山

東山三十六峰の最南端にあたる稲荷山は標高233メートル。この稲荷山全山を神域とするのが伏見稲荷大社で、農業神である稲荷五社と神使の狐が有名です。五穀豊穣(商売繁盛)を願って全国から多くの参拝者で賑わいます。本殿から三ヶ峰をめぐることを「山めぐり」「お山をする」といい、行程はざっと4キロメートル、およそ1時間の道のり。なかでも千本鳥居のトンネルが有名で、最近では、海外からの旅行者にも大人気です。

 

3月・4月:比叡山 不滅の法燈

東山の最北にひときわ高く頭を突き出した比叡山。古くから山といえば、それだけで比叡山を指し、御山と呼んで親しまれてきました。この比叡山が京都と深く結びつきを持つようになるのは、山上に一乗山止観院を建てた最澄が桓武天皇の信を得て天台宗の修業道場を開いてから。平安京の鬼門を守る鎮護国家の霊場として、新しい佛教の学問研究の場として平安仏教の中心に。のち修業道場は創建の年号から延暦寺となりました。

 

5月・6月:瓜生山

八坂神社の祭神牛頭天王が貞観十八年(876)播磨国広津から八坂の地に移る前に、ひとまずこの山に鎮座されたといわれています。牛頭天王は木瓜を好み、このゆかりから「瓜生山」の名がついたそうです。標高294メートル。山頂からは京都の町が一望でき、中世には山城が築かれ、たびたび合戦の拠点ともなったところです。

 

7月・8月:如意ヶ岳

銀閣寺をふところに抱く如意ヶ岳は標高459メートル。東山三十六峰のうちでは比叡山につづく雄峰。この山が何よりも親しまれているのは、盂蘭盆会に夜空を焦がして点火される「五山の送り火」です。毎年八月十六日、如意ヶ岳の「大」が最初に点火され、引き続いて松ヶ崎の「妙」「法」、西賀茂の「船形」、金閣寺裏山の「左大文字」、そして北嵯峨の「鳥居」が点火されていきます。京の人たちは、ゆく夏を惜しむように、夜空に浮かぶ火の文字を見守ります。

 

9月・10月:小倉山

東山に向かい合う山、西山といえばどこかもの悲しい。百人一首で名高い、代表的な小倉山はどこか心を沈ませる雰囲気をもった山です。「小倉山 峰のもみぢ葉心あらば いまひとたびの みゆき待たなむ」宇多上皇が御幸になり、あまりの紅葉の美しさに醍醐天皇の行幸もあるべきと話されたのに、藤原忠平が答えて詠んだ歌などが有名です。

 

11月・12月:鞍馬山

北山は畳々と奥が深い。京都盆地の北を限る花背を分水嶺に、標高7、8百メートルと山々が波を重ねるようにして丹波高原をつくり、さらに北へ北へとうねりを伸ばす北山連峰。そんな奥深い山々と京都の町を強く結びつけているのが鴨川です。流れに逆上って源流をたどれば、川はやがて鞍馬川、貴船川に名を変えて、鞍馬山に抱かれて、そのふところを巡ることになります。