日本新薬

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壬生のヨモギNYへ渡る壬生のヨモギNYへ渡る

独自の道を、歩く中で STORY01独自の道を、歩く中で STORY01

「日本人の服(の)むくすりは日本人の手でつくりたい。」
明治維新のあと、外国の文化やモノが日本に次々とやって来て、海外で創られたくすりも日本にたくさん入ってきました。そんな時代に、くすりの国産化という夢に燃える人がいました。市野瀬潜(いちのせ ひそむ)、日本新薬の創業者です。

彼が着目したのは、回虫駆除の特効薬「サントニン」。日本人は昔から、回虫による頭痛や腹痛、嘔吐に悩まされてきました。そして、サントニンのほとんどは当時のロシアから輸入していました。そうするしかなかった、という方が正しいでしょう。サントニンの原料は「アルテミシア・シナ」というヨモギ属の植物からつくられます。これは中央アジアの平原だけに生育する植物で、輸出も禁じられ、日本国内での生産は不可能だと言われていました。

でも、市野瀬は諦めませんでした。
ここから日本新薬の挑戦が始まります。

1926年11月、まず原草となる品種の探索が行われました。日本産ヨモギを調べ尽くし、また外国産ヨモギを取り寄せ栽培してみても、どれも失敗に終わりました。でもある日、ロンドンで発行された雑誌にドイツでサントニンを含む植物を栽培しているとの記事が見つかったのです。

やっとのことで手に入れた種子。彼らは、欧州産の品種に着目し、小さな希望にかけて日本で生育を始めました。3年を経て、植物のつぼみからサントニンの結晶を抽出。市野瀬は粉末状になったものを自分で服み確かめました。日本新薬が初めて、独自の原草栽培に成功した瞬間です。品種は当時の本社があった京都の壬生の地名にちなみ、「ミブヨモギ」と命名されました。

原草は手に入っても、ミブヨモギを栽培できる広い場所の確保、品種をより優れたものにするための改良など、問題は山積みでした。特にミブヨモギからサントニンを抽出・分離させるための機械の製造には大変な苦労がありました。いくつもの失敗を繰り返した末、念願の連続抽出機が完成。1日約130kgの原料からサントニン結晶300gが製造できるようになりました。

1940年5月10日、市野瀬と全社員の労苦が、歓喜の声に変わりました。
自分たちの手でサントニンを創ることを夢見て15年、
ついに日本新薬は、国産サントニンを発売することができたのです。

その後はニューヨークに向けての販売に成功、東南アジアへの輸出の道も次々と開かれていきます。
こうして日本は、サントニンの輸入国から輸出国へと変わっていったのです。

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