2019年 カレンダー絵画創立100周年
日本新薬ゆかりの地

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表紙:昭和53年の西大路通

京都の市電(路面電車)は、明治28年(1895)2月1日から京都電気鉄道によって日本最初の電気鉄道として開業され、明治45年(1912)の市営路線開始、大正7年(1918)の全面市営化を経た後、昭和54年(1979)9月30日までの83年間、京都の市内を縦横に走っていました。市民の足として黄金時代が続きましたが、昭和30年代の後半から、市電と競合する市バス等が増加し、さらに自動車も多く走りはじめ、路線の自由がきかない市電経営は行き詰まりをみせ、昭和45年(1970)伏見線、稲荷線の廃止を皮切りに路線が次々廃止され、残る外郭線(北大路・西大路・九条・東山・七条・河原町)すべてが廃止され、京都の路面電車の歴史に終止符が打たれました。

 

1月・2月:壬生寺

壬生寺は律宗の寺。延命地蔵菩薩が本尊。991年(正暦2)三井寺の僧快賢が母の孝養のために地蔵菩薩を安置したのが起こりといわれています。中興の祖・円覚上人が悪疫駆除のため壬生狂言を始めたことから、地蔵信仰が盛んになり、毎年4月と10月に「ガンデンデン」と囃子ながら重要無形民俗文化財の無言劇「壬生狂言」をはじめ、厄除け節分会などの行事には、たくさんの人で賑わいをみせます。また、ここは幕末に新選組が駐屯した所であり、表門を入ってすぐ右手に新選組隊士の墓所(壬生塚)と、近藤勇の胸像があります。寺のすぐ北側には八木邸、東側に旧前川邸の長屋門といった壬生屯所の跡があります。

 

3月・4月:吉祥院天満宮

吉祥院天満宮には承和12年(845)この地で生まれたとされる菅原道真公が祀られています。承平4年(934)朱雀天皇が菅原道真を尊崇して勅祀した初の天満宮です。境内には、道真のへその緒を埋めたと伝わる「胞衣塚(えなづか)」、少年時代に習字に使ったといわれる「硯(すずり)の水」、顔を映した「鑑(かがみ)の井」などの史跡があります。また、道真の祖父の清公が遣唐使として渡航中に、暴風雨で転覆しかかった時、最澄とともに吉祥天に祈ると海が静まり難を逃れたという吉祥天女を清公が帰国後もしくは道真の父是善がこの地の自邸内に祀り吉祥院としました。これが地名の由来といわれます。4月25日と8月25日には、六斎念仏が奉納されます。

 

5月・6月:長岡天満宮

菅原道真公が太宰府に左遷されるとき、この地に立ち寄り、「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだとして道真公を祀っています。そのため「見返り天神」ともいわれています。現在の社殿は、昭和16年(1941)に京都の平安神宮の御社殿を拝領移築したものです。正面朱塗りの拝殿は既存の拝殿を増改築したもので、平成10年(1998)秋に竣工されました。また、景勝地として名高い境内には、寛永15年(1638)八条宮智仁親王によって築造された「八条が池」が広がり、その中央を通る参道の両側には樹齢百数十年といわれるキリシマツツジが多数植えられており、花の季節には多くの観光客で賑わいます。

 

7月・8月:白川の一本橋

白川に架かる古川町橋(ふるかわまちばし)は、一本橋、行者橋、阿闍梨橋ともいわれます。天台宗の修行のうちでも随一の荒行とされる千日回峰行を終えた行者が、入洛する際、最初に渡る橋とされています。今日ある橋は、明治40年(1907)に架け替えられたもので、長さ約12m、幅はたったの60cmしかなく、渡るのにちょっと躊躇する一本橋ですが、地元の子どもたちはスイスイ渡っていきます。京都市橋梁台帳によると京都市の市道となっています。白川と柳並木の風情が漂う橋の近くには、ドラマのロケでお馴染みの古川町商店街があり、かつて京の台所錦市場になぞらえて「東の錦」と呼ばれたところ。南東には知恩院門前があります。

 

9月・10月:松尾大社

松尾大社は、渡来人秦氏が一族の氏神として信仰した古い社です。大山咋神・市杵島姫命を祀り、境内に霊亀ノ滝、亀ノ井の名水があり、酒造家の信仰が厚く「日本第一酒造神」と仰がれています。本殿建立は、大宝元年(701)。松尾造といわれる本殿(重文)ほか拝殿、釣殿、楼門など社殿が多く、等身大の神像(重文)は平安初期の作。4月20日以降初めての日曜の「神幸祭」は千年の歴史をもつ祭礼。この祭りでは七条通の桂大橋上流付近で舟渡御(川渡り)をおこなうのが圧巻。桂離宮の対岸の河原斎場で神輿が6基そろって祭典をおこないます。川原は多くの見物客であふれ、神事を見送ります。

 

11月・12月:毘沙門堂

毘沙門堂は、天台宗五箇室門跡のひとつで、高い寺格と鄙びた山寺の風情を伝える古刹。ご本尊に京の七福神のひとつ毘沙門天を祀ることからこの名があります。創建は大宝3年(703)文武天皇の勅願で僧行基によって開かれました。寛文5年(1665)天海大僧正とその弟子公海大僧正によって、現在地に再興されました。代々法親王が住持してきました。宸殿を飾る狩野益信作の『動く襖絵』が有名です。商売繁盛・家内安全にご利益があり、1月の初寅参りには、福笹が授与され、多くの善男善女で賑わいます。春は樹齢百五十余年の枝垂れ桜ほかの桜の花が咲き誇り、秋は紅葉で境内は色鮮やかに染まります。伊勢参りの帰路、京都見物を終えた喜六と清八。大阪の八軒家まで三十石の夜船に乗ろうと、寺田屋の浜までやってきた。船宿は大勢の客が待ち、いよいよ出発の時刻。土産売りの声や乗り合い連中のやりとりも賑やかに、船は静かに岸を離れていく。船頭さんの「女中さん一人乗せてやって」といわれ、乗客「乗れないよ、これ以上」。喜六と清八のふたりは「お女中さんだったらいいよ」。「まず荷物だけ来たよ。荷物を頭の上に乗せておけよ。お女中はまだ来ないぞ」。船頭さん「行ったよ、すぐそばに」。なんとお女中とは、お婆さんだった。すっかり若い女性だと思っていたのに当てが外れ、さらに荷物はおかわ(携帯便器)だった。船頭さんの舟唄に揺られ、夢の中で長い旅を終える。