2017年 カレンダー京の七口

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かつて、畿内を廻るすべての道は京の都へ通じていた、といっても過言ではない。実際に、京からは四方八方へと街道が延びていた。今日でも、京からは丹波・若狭・丹後・近江・摂津・大和へと、各地へ通じる道は網の目状に広がっており、それぞれにその拠点となる場所が存在する。「京の七口」とは、基本的には京と七道を結ぶ街道の出入口をさす名称であるが、後述するように、これは江戸時代になって一般に用いられるようになった呼称であると思われる。京の都と地方を結ぶターミナルを意味する、きわめて象徴的な表現だといえるだろう。

「京の七口」のルーツは、中世に設置された「七口の関」に求められる。室町時代には幕府や公家が京と地方を結ぶ出入口に関所を設け、関銭を徴収するようになったといわれる。その関所が七口の関だ。高い通行料に苦しめられた民衆は関所の撤廃を要求し、時には一揆を起こして実力で関所を破壊したこともあった。そのために関所の設置と廃止が繰り返されるという鼬ごっこが繰り返されたが、15世紀後半には民衆の不満がついに爆発し、大規模な山城土一揆が起こった。以後も七口の関は完全には廃されることはなかったが、豊臣秀吉の政権下に、ついに全廃された。

豊臣秀吉は、祇園祭御旅所の統合や寺町の創設など、京の街の大改造を行った人物であるが、その一環として、京の周囲を囲い込むように「御土居」を築いたことはよく知られている。御土居は、東は鴨川、西は紙屋川、北は鷹峯、南は九条までの総延長24㎞におよぶ土塁で、高さは5m、幅は10mあったという城塞である。この建造によって、それまで曖昧であった洛中洛外が明確に区別されるようになったといわれている。その土塁に何か所かの出入口を設け、それを「口」と称したことから、それ以降「京の七口」という表現が一般化して広まっていった。しかし「七」という数字は決して固定したものではなく、実際には十口、もしくはそれ以上あったという説も存在する。

そもそも七口の関が設けられたとする七道とは、東海道・東山道・北陸道・南海道・西海道・山陽道・山陰道の7つの街道を指すといわれるが、それ以外に丹波道や嵯峨道などもあり、必ずしも一定してはいない。七口も同様であり、通常は「鞍馬口」・「大原口」・「粟田口(三条口)」・「伏見口(五条口)」・「東寺口(鳥羽口)」・「丹波口」・「長坂口」を指すことが多いようだが、他にも「荒神口」や「竹田口」等もあり、必ずしも7つではないことがわかる。公家の近衛信伊の日記である『三藐院記』には、御土居の建造当時の出入口は「十口」あったとする記載があることからも、実際には7か所以上あったことは明白である。「七」という数字は、どうやら京の都が古代日本の行政区画としての「五畿七道」の中心にあり、「七道」すなわち日本の諸国へ延びる街道の出入口を象徴的に示す数字として語られた名残ではないかと思われる。

「鞍馬口」は、源義経が若き日に修業したことでも知られる鞍馬寺の門前町である鞍馬へ繋がる口で、御土居の出入り口が賀茂川にかかる出雲路橋の西側にあったといわれている。今日では地下鉄烏丸線の駅名として残っており、出雲路橋から西へ延びる道路を「鞍馬口通」と称する。

「大原口」は、八瀬・大原・朽木を経て若狭街道、別称「鯖街道」へ繋がる口で、御土居の出入口が河原町今出川の西側にあったといわれている。寺町今出川付近の「大原口町」という町名として今日まで残っている。なお今日、八瀬・大原方面へ向かう叡電や京都バスは、賀茂川と高野川が合流する出町柳が起点となっている。

「粟田口」は別称「三条口」ともいい、三条大橋から東海道・中山道へ繋がる口で、御土居が設けられたのは三条大橋の西側であるが、室町時代に鴨川の左岸(東側)に関が設けられたことから、地下鉄東西線の蹴上駅近くに粟田口という地名が残っている。そこには粟田神社が鎮座し、古くから旅の安全を守る神として篤い信仰を集めている。

「伏見口」は別称「五条口」ともいい、豊臣秀吉が開いたといわれる伏見街道へ繋がる口で、御土居の出入口が五条大橋の西側にあったといわれている。

「東寺口」は別称「鳥羽口」ともいい、乙訓郡山崎を経て西へ延びる西国街道、または鳥羽を経て淀へ至る鳥羽街道へ繋がる口で、九条千本を少し東へ行った場所に御土居の出入口があったといわれている。

「丹波口」は、亀岡から丹波へ延びる山陰街道に繋がる口で、七条千本を北へ行った場所に御土居の出入口があったといわれている。今日では山陰本線の「丹波口」という駅名として残っている。

「長坂口」は、鷹峯から京見峠や杉坂を経由して周山街道に繋がる口で、御土居の出入口が鷹峯付近にあったといわれている。なお、この付近には当時の御土居の跡が比較的原型に近い形で残っている。

「荒神口」は北白川から志賀峠を経て西近江路へ繋がる口であり、河原町通に「荒神口」という地名として残っている。また「竹田口」は伏見区の竹田から伏見港へ延びる竹田街道に繋がる口である。

「七口」が実際には何処だったにせよ、それは遥かなる苦難の旅路を経て、はじめて京の都へ足を踏み入れた人々にとっては、望郷の想いとともに都での華やかなりし暮らしに心躍らせた場所であっただろう。また、旅立って行く人々にとっては、うしろ髪引かれる想いで口を後にしたことであろう。その意味で、七口は都を去来するすべての人々にとって、哀感と郷愁を抱かせる、特別な空間だったことは間違いない。

表紙:伏見口

豊臣秀吉がこよなく愛した地が伏見である。秀吉が建造した伏見城は慶長元年(1596)の大地震でことごとく倒壊するが、すぐに再建を試み、慶長2年には念願の天守も完成する。しかし翌年の慶長3年には、秀吉は伏見城でその生涯を閉じた。その後、江戸時代には伏見は水陸交通の要衝として栄え、銘醸地の基盤が形成される。その背景には天然の名水に恵まれていたことを忘れてはならない。かつては「伏水」と表記されたことからもわかるように、伏見は豊かな水がコンコンと湧く地としても有名である。このような背景のもと、伏見は明治期には天下の酒どころとして、日本全国にその名を轟かせるようになる。

 

1月・2月:大原口

比叡山の麓、八瀬童子の伝承が残る八瀬へ。壇ノ浦の海に沈んだ安徳帝の母、建礼門院ゆかりの寂光院や三千院で知られる大原へ。さらに鞍馬天狗の伝説で著名な鞍馬の里へ。かつての大原口からふたつの河川を東へ渡った左岸の出町柳から叡山電鉄が通っている。大原の里から北方へは、途中・葛川・朽木を経て、鯖街道が若狭の小浜まで通じている。

 

3月・4月:丹波口

かつて「口丹波」と称した地域を代表する町が亀岡だ。その亀岡市千歳には丹波国一の宮、出雲大神宮が鎮座する。社伝によれば、島根県の出雲大社は出雲大神宮からの分霊とされている。ここでは毎年、桜花が散る4月に、疫病退散を願う鎮花祭(はなしずめのまつり)としての「出雲風流花踊」がおこなわれ、大勢の参拝者で賑わう。

 

5月・6月:鞍馬口

都の北方鎮護を担う鞍馬寺では、毎年6月20日に「竹伐り会式」がおこなわれる。これは9世紀末の寛平年間に東寺の僧である峯延上人が鞍馬寺で修業中、大蛇が襲い掛かってきた際に、上人が仏法の力で大蛇を退治したという故事に因む。4mもの青竹を大蛇に見立て、僧兵姿の法師が近江と丹波の両座に別れて伐る速さを競い、その年の豊凶を占う。

 

7月・8月:荒神口

「荒神口」の名は、三宝荒神を本尊とする天台宗「護浄院」に因んだ名である。三宝荒神は火とかまどの守護神であり、台所で祀られる神仏習合の神である。護浄院の寺伝によれば、奈良時代の宝亀2年(771)に光仁天皇の子であった開成皇子がみずから三宝荒神を彫り、この地に堂を建立して祀ったのが始まりとされている。

 

9月・10月:粟田口

粟田口に鎮座する粟田神社は、9世紀の清和天皇の時代に創建されたと伝えられる古社で、創始を伝える社伝によれば、後の八坂神社、当時の祇園感神院と深い関わりを有する。毎年10月におこなわれる粟田祭では、剣鉾が出ることで有名だ。剣鉾は主に御霊会に用いられる京特有の祭具であり、剣鉾差しとよばれる者が垂直に持ち上げて巡行する。

 

11月・12月:東寺口

東寺の正式寺名は教王護国寺。平安京鎮護の目的で建立されたが、9世紀には嵯峨天皇より弘法大師空海に下賜され、以後は真言密教の道場として発展してきた。中世以降は、大師信仰の影響から庶民の信仰対象となった。毎月縁日の21日におこなわれる弘法市は有名で、特に12月は「終い弘法」と称し、大勢の人でごった返す。