2018年 カレンダー京を彩った女たち

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「京女」という言葉は、たいそう柔和で奥ゆかしい響きを発する。ことしは「京女」について、あれこれと想いを廻らせるとしよう。

先日、関東在住の知人から「京都にはなぜ美人が多いのか」と訊ねられ、思わず考え込んでしまった。「京美人」に「博多美人」と「秋田美人」を加えて、「日本三大美人」と称されることがあるが、考えてみれば、この3ヵ所がわが国の美人の象徴とされた背景は、必ずしも同質ではないように思われる。博多美人は、当地の女性たちの美容に対する関心度が他地域と比べて高いことや、中洲を中心とする歓楽街の存在、また博多芸妓による「博多踊り」などが複合的に合わさって、博多には美人が多いというイメージができあがったと考えられている。一方、秋田美人は、日本海沿岸地域は一様に日照時間が短いことや、積雪が多いことから外出する頻度が低く、結果として色白の女性が多いことが要因となってイメージされた美人像であろう。他にも「津軽美人」や「出雲美人」などがあるようだが、わが国のご当地美人イメージは、女性の見た目に由来するところが大きいように思う。しかしながら、「京美人」は必ずしもルックスや肌の色に起因した美人イメージではないのではないか。いうならば、女としての生き方によるように思うのは筆者だけだろうか。

平安時代にまで時を遡らずとも、近世から近代における京の町衆の奥方たちの姿を思い描けば、京美人の基本イメージがわかるような気がする。彼女たちは、皆、茶道や華道、さらに香道や行儀作法など、すべてにおいて堪能でなければならなかった。また、京は周知のとおり和装文化の中心地である。京女は、常に着物を粋に着こなす術が求められたのである。このような衣装の着こなしから、見事な立ち振る舞い、そしてそこから発せられる、艶やかでありながらどことなく淑やかさを醸すような存在感。加えて、常に男衆を立てながらも、裏方として家を切り盛りする芯の強さ。これらの諸要素が総体として混ざり合いながら、京美人のイメージが醸成されていったのではないか。そうなると、やはり京美人だけは、「博多美人」や「秋田美人」とは異質であるといわざるを得ない。

一昔前は、「東男に京女」という組み合わせが理想的なカップルだといわれた時代があった。これは、逞しく行動的な東国の男性と、淑やかで優しい京女のカップルを称賛する諺である。ここでも、京女の「男を立てると」いう面が強調されているように思われる。その点は間違いではない。しかし、はたして京女は「淑やか」で「優しい」だけなのだろうか。筆者はそうは思わない。京女ほど、実はきわめて積極性を持ち合わせた行動派で、意志の強い女性はいないのではないかと考えている。それは歴史を遡ればすぐに理解できるだろう。

平安時代の女流作家で『枕草子』の作者として知られる清少納言は、博学で才気煥発な女性だ。当時の上流貴族たちとの巧みな交際で宮廷社会に令名を残したのみならず、数多くの恋愛関係も示唆されている。また紫式部とのライバル関係も有名で、紫式部が清少納言の人格と業績を全否定するかのごとき筆誅を加えているのに対し、清少納言は紫式部評を一切残していないこともよく知られている。まさしく、才女であるがゆえの強かさを感じさせる女性だといえるだろう。

同じく平安時代の歌人である和泉式部は、誠に恋多き女性として名高い。10世紀末に橘道貞と夫婦になるが、やがて離縁し、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王との熱愛が世に宣伝される。しかし、身分違いの恋であるとして親から勘当される。為尊親王が26歳で夭逝した後、今度はその弟である敦道親王の寵愛を受けることになる。しかしその恋も敦道親王の死によって4年で破綻し、やがて最後の夫である藤原保昌と再婚する。次々と男性遍歴を重ねた和泉式部は、恋した男性の多くが夭逝したことを考えると、強かで情熱的というよりは、悲運の中に生きた哀れな女性だったとする評の方が妥当なのかもしれない。

また、室町幕府八代将軍足利義政の妻である日野富子は、15世紀の寛正6年に念願の男児である義尚を出産する。富子は溺愛する義尚の将軍擁立を目論み、政界へ介入した結果、京都を焼野原と化した応仁の乱という大騒乱を巻き起こすことになる。また義政という夫がいながら、後土御門天皇との密通が噂されるなど、業の深い女の一面も有している。戦乱で苦しむ庶民の苦悩をよそに、巨万の富を築いた女性として「天下の悪妻」と称されることも多い。その意味で、富子は戦乱の世の中においても、自らの欲求に対して正直に、強かに生き抜いた女性であったといえるだろう。

時代を下っても、京女たちの姿はさほど変わらない。明智光秀の娘で細川忠興の妻となり、30代半ばで壮絶な死を迎えるまで、生涯をキリスト教にささげた細川ガラシャ。17世紀初頭に京都西陣の八百屋の娘として生まれ、やがて徳川三代将軍家光の側室となり、五代将軍綱吉を産んだ桂昌院。幕末の動乱期、孝明天皇の妹で徳川十四代将軍家茂に降嫁し、明治初頭には徳川家の存続に奔走した和宮親子内親王。時代の波に翻弄されながらも、強く逞しく生きた京女たちは枚挙にいとまがない。

京女の生き様は、祇園祭山鉾町にも息づいているように思われる。祇園祭は基本的には女人禁制であるがゆえに、女性は一切表には出ない。完全な裏方といってもいいだろう。しかし、祇園祭山鉾の運営は女性なくしては成り立たない。衣装の洗濯・調達・管理から、そして本番での着付まで、すべては女性の手によって行われている。祇園祭は、まさに「男を立てる」というにふさわしい女性の演出があってこそ、千年超の歴史を刻むことができたといっても過言ではない。そこには、確かな信念と情熱を併せ持ち、強く逞しく生きてきた賢女としての「京女」の縮図を見ることができる。

表紙:紫式部と廬山寺

紫式部はいわずと知れた『源氏物語』の作者で、世界的な文豪として名高い。紫式部は現在の廬山寺のある地に邸宅を構えていたといわれており、『源氏物語』や『紫式部日記』などはここで執筆されたと伝えられている。そのため、この地は「世界文学発祥の地」ともいわれている。廬山寺は京都市上京区の御所に近い場所にある天台系の単立寺院で、阿弥陀如来を本尊とする圓淨宗である。元は10世紀に天台座主であった元三大師良源によって北区の船岡山南麓に建立されたが、豊臣秀吉の寺町建設により現在の地に移転した。

 

1月・2月:清少納言と泉涌寺

泉涌寺は真言宗泉涌寺派の総本山で、皇室との関係が深いことから、「御寺」とも称されている。清少納言の父の清原元輔の旧居で、清少納言も晩年に暮らしたとされる月輪山荘に近い場所だとされている。このことに因み、境内には百人一首に採られた「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」の歌碑が建てられている。

 

3月・4月:小野小町と随心院

随心院は京都市山科区小野にある真言宗の本山で、如意輪観音を本尊とする。小野は小野氏一族の本拠とされた地で、絶世の美女として知られる小野小町も、宮中を退いた後はこの地で過ごしたとされる。そのこともあり、随心院には、小町の晩年の姿とされる卒塔婆小町像をはじめ、小町ゆかりの遺跡が残っている。

 

5月・6月:和泉式部と貴船神社

京の都の水源に位置する貴船神社は、水神である高龗神を祀り、古くから祈雨の信仰対象として崇められてきた。藤原保昌と再婚した和泉式部は、やがて夫との不仲に悩むようになる。彼女が夫の愛を再び取り戻すために貴船神社へ参拝したという伝承に因み、境内にある結社は、恋愛成就の御利益があるとして多くのカップルが訪れる。

 

7月・8月:待賢門院璋子と法金剛院

待賢門院璋子は、平安末期に白河上皇や鳥羽上皇の寵愛を受けながらも、美しすぎたがゆえに数奇な運命を辿った女性である。璋子は12世紀の大治5年、荒廃しつつあった法金剛院を復興させ、晩年は自らここで過ごしたと伝えられている。また彼女の墓所も、法金剛院のすぐ北側の五位山中腹の花園西陵にある。

 

9月・10月:藤原高子と大原野神社

藤原高子は藤原長良の娘として生まれたことから、政略結婚の犠牲となった女性のひとりである。清和天皇の女御となるが、一方で、歌人の在原業平と熱い恋に落ちたことでも知られている。大原野神社は奈良の春日大社の神を祀ることから「京春日」の別称を持つ古社で、高子が当社へ参詣した際に、かつての恋人の業平と出会ったと伝えられている。

 

11月・12月:常盤御前と鞍馬寺

源義朝の側室で、源義経の母の常盤御前は、夫の死後、その美貌ゆえに宿敵平清盛から妾となることを強要され、それを受け入れる。はじめは清盛の元で育った義経は、10歳にして都の北方鎮護を担っていた鞍馬寺へ預けられ、厳しい武者修行に励むことになる。そしてついには、平氏討伐の意を決するのである。