2022年 カレンダー京のことわざ散策

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日本には優れたことばの文化が数えきれないほどある。ことわざもそのひとつである。ことわざは漢字では「諺」と表記し、「俚諺」「諺語」ともいう。一説には「言の技」すなわち言語の技芸を指すともいわれるが、単なる技芸ではなく、比喩を用いることで万人の共感を得、また説得力を有する短句だといえるだろう。ことわざの多くは、人々の日常生活における観察や経験から生まれ、長く口伝として継承されてきたもので、真実の一面を突くような蘊蓄を含んでいる。海外にもことわざに相当するものは存在するが、その数とヴァリエイションからすれば、日本には到底およばないだろう。
ことわざの対象は、私たちの暮らしのあらゆる場面におよぶがゆえに、たとえば三つに分類して整理する方法も伝えられている。第一は、人の容姿、性格、経験などの弱点を指摘することわざである。「炭団に目鼻」や「狐を馬に乗せたような」などがその例である。このようなことわざは、面と向かって発するというより、その場にいない第三者を噂するときに用いられることが多い。第二は、人としてあるべき道や理念などを伝えることを目的とした、教訓的なことわざである。「出る杭は打たれる」「迷わぬ者に悟りなし」「転ばぬ先の杖」などは、よく知られたことわざだろう。第三は、くらしに必要な経験知を伝えたり、自然現象を予知することを目的としたことわざである。「胡麻の遅まき小豆の早まき」「八つ晴に傘脱ぐな」などがその例といえるだろう。その他にも、単に笑いを導くだけのものや、「犬が東向けば尾は西向く」などのように、あまりに当たり前でわかりきっていることをあえてことばにしたようなことわざもあり、そう単純に分類できるものではない。
日本民俗学の創始者である柳田国男は「ことわざの話」という著作の中で、「私がわざわざ笑わせるような諺だけを抜き出しているのだと思う人がもしあるなら、一つでもいいから脇にいる者が泣きたくなるような諺をみつけて御覧なさい。そんなものは絶対にないのであります」と述べている。ことわざの多くは、人の弱点を面白おかしく批評することで周囲の者たちの笑いを誘いながら、噂の張本人を効果的に諭すという目的があった。ゆえに、お涙頂戴的なことわざは存在しないのである。

日本にはご当地ものといえるようなことわざも多く伝えられている。中でも京都を題材としたことわざはすこぶる多い。ただそれらの中には、対象は京都だが、中に含む内容は普遍的で全国に通用するようなものもあれば、京都という一定地域内でしか意味をなさないようなものもある。
「敵は本能寺にあり」とは、言わずと知れた、明智光秀が主君織田信長を討つことを軍勢に知らせたときのことばとしてあまりにも有名である。ただこのことばは、単なる光秀の決断を意味するのみならず、他の場面でも比喩的に使われているがゆえに、ある種普遍的なことわざだといえるだろう。また「三人よれば文殊の知恵」や「清水の舞台から飛び降りる」も、金戒光明寺の文殊菩薩と清水寺の舞台という、京都の具体的な名所が題材とされているが、凡人であろうと三人が集まって知恵を出せばよい結果を生むという教訓や、思い切ったことを実行することの喩えとして、いずれも普遍的に用いられることわざである。しかし「平安京は四神相応の都」「六角さんのへそ石」「祇園祭は鱧まつり」は、京都の歴史的風土や京都独自の伝統などを伝える表現であり、決して普遍的とはいえない。また「弘法さんが雨なら天神さんは晴れ」は、お天気の予兆を伝える表現として、ある種の普遍性を有するともいえるだろう。
このように、京都のような悠久の歴史を抱いた古都においては、単なるその土地に伝わる伝承や決まり事を表したことばも、長く継承されてくる中で、ことわざとしての性格を帯びてくることもあるのである。

たとえば「埒が開かない」は、今や競馬をテーマとしたことわざだと思われがちだが、これは京都の上賀茂神社の較べ馬という神事に由来したことわざである。勝敗が決するまでは馬の出入口である埒、つまり柵が開かないことに喩えて、物事が終結しない様を表わしている。また「後の祭り」は、祇園祭の還幸祭、通称「後の祭り」を喩えに、好機を逃してしまって悔やむ様子を伝えることわざである。さらに「堂々めぐり」という表現も、清水寺で行われていたお百度参りを喩えとして、同じことが繰り返される様を伝える表現として普遍的に語られている。このように、京都を題材として今や全国的に知られてよく用いられていることわざは枚挙に暇がない。
ことわざは、ひと昔前の人々の価値観や感性、さらに人生訓を内包した言語表現だといえるだろう。京都発祥のことわざは、世界的にも稀有な歴史都市京都に生きた無数の人たちの心の奥底を映し出す、希少な鏡としての性格も有しているといえるのではなかろうか。

表紙:敵は本能寺にあり(本能寺)

京のことわざで最も有名なものといえば「敵は本能寺にあり」。真の狙いは、表面に掲げたものとは別のところにある。また、もっともらしい口実を設けて人の目をあざむき、ひそかに本当の目的を実現しようとすることのたとえ。
天正十年(1582)六月一日、織田信長に仕えていた丹波亀山城主明智光秀は、備中(現在の岡山県)で戦う羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の援軍として出陣するよう命じられたが、一万三千の大軍は備中に向かわず、老ノ坂から桂川を渡る。「わが敵は本能寺にあリ」と謀反を決断、二日夜明け前にはわずか百余の手勢しかいなかった本能寺を急襲した。信長は本能寺に火をかけ切腹した。当時の本能寺は、四条西洞院を北へ上がったところにあった。

 

1月・2月:平安京は四神相応の都(鴨川の水面)

青龍(東)は賀茂川、白虎(西)は山陰道、朱雀(南)は巨掠池、玄武(北)は舟岡山で四方を守護とする平安京。延暦13年(794)10月22日、平安京遷都にあたって、桓武天皇は四神相応の風水の観点から最適の地として、北に高くそびえる山があり、南が広く開けた湖沼があり、東に清き流れがあり、西に大きな道が続く地を選び、都を移した。山蒼く、水清く美しい自然に恵まれた都にふさわしい地。これが平安京のはじまりで、明治2年(1869)まで長期にわたり日本の首都だった。

 

3月・4月:三人寄れば文殊の知恵(桜・金戒光明寺)

「文殊」とは文殊菩薩の略で、知恵をつかさどる菩薩のこと。知恵とは、仏教用語で正しく物事を認識し、判断する能力をいう。それだけに、たとえ凡人でも三人で集まって相談すれば、最高知の象徴とされる文殊に劣らぬほど、思いがけないよい知恵が出るというたとえ。では、なぜ京都かといえば、日本三文殊のうち二つまでが京都にあり、京都市左京区黒谷金戒光明寺の文殊と、日本三景「天橋立」でおなじみの京都府宮津の智恩寺の文殊。残る一つは、奈良県桜井市の知足院崇敬寺。

 

5月・6月:六角さんのへそ石(若柳の六角堂)

華道池坊の寺として有名な六角堂(紫雲山頂法寺)。場所は烏丸通に近い六角通にあり、「六角さん」の名で親しまれている聖徳太子ゆかりの寺。その本堂前の地擦リ柳の右下に、直径45センチの六角形の石があり、真ん中に穴が開いている。「六角さんのへそ石」とか「京のへそ石」と呼ばれている。江戸時代の『都名所図会』よると、この石は平安京造営の際、本堂の位置に道を通すことになり、桓武天皇が困って「少し動いてください」と本堂に祈ったところ、一夜にして本堂が約15メートル北へ移動したといわれている。

 

7月・8月:祇園祭は鱧まつり(祇園祭山鉾巡行と鱧おとし)

京都では祇園祭の別称「鱧まつり」。昔から祇園祭の頃になると、夏バテをしないように、体力をつけるために鱧の脂をとったといわれている。鱧は梅雨明けの頃が最も美味とされ、栄養価も高い。その美味しさは骨切りにあり、料理人の腕の見せどころ。わずか3センチ幅毎の身に24回もの包丁を入れ、皮を切らない。骨をまったく感じさせなく切られた鱧は、口に入れると美味しさがひろがる。あっさり味の身は、湯に出逢うと、反り返って白い花を咲かせたように美しい。すぐさま冷水に浸して、身が引き締まったところを梅肉のタレなどで味わう。

 

9月・10月:清水の舞台から飛び降りる(清水の舞台)

思い切ったことをするときに、よく使われることわざ。清水寺の舞台から飛び降りたという話は現実にあった。観音様に願をかけて舞台の欄干から後ろ向きに飛ぶ。願いが叶えば無傷、だめでも極楽往生という死も恐れない信仰。日傘を差して飛び降りた人もいたとか。もちろん飛び降りは厳禁。京都府は明治5年に「清水の舞台飛び厳禁」を通達している。清水寺の舞台は、断崖の上に高さ13メートル、通称「地獄止め」といわれる139本の組木が縦横に組み合わされた構造で建てられている。

 

11月・12月:弘法さんが雨なら天神さんは晴れ(終い弘法・東寺の縁日)

弘法さん(弘法大師空海が3月21日に亡くなったので21日が月命日)と、天神さん(菅原道真公が2月25日になくなったので25日が月命日)。特に、年末の終い弘法、終い天神には、正月準備の品を求める人で賑わう。ことわざ「弘法さんが雨なら、天神さんは晴れ」、逆に「弘法さんが晴れなら、天神さんは雨」ともいわれるのは、『京都お天気歳時記』によると「天気の周期変化は、春秋によくみられる低気圧と移動性高気圧が交互に通るためにおこる。このとき低気圧が時速約40キロで約5千キロの間隔で進んでくれば、5日ごとに低気圧の雨が降ることになる」という。