コラム:日本初の国産回虫駆除剤

コラム:日本初の国産回虫駆除剤
「サントニン」

当社の創業者、市野瀬潜はかねてより輸入特効薬の国産化を検討してきたが、大正期末から具体的構想として浮上してきたのが回虫駆除の特効薬だった。

日本人は古来、回虫の害に悩まされ続けてきたが、当時の回虫駆除の特効薬サントニンは国内では生産できず、そのほとんどをロシアから輸入し、また、輸入医薬品の筆頭でもあり大変高価だった。サントニンの原料となる植物は、中央アジアのキルギス高原だけで産するもので、ロシアは極端な保護政策のもと種苗の国外持ち出しを厳禁していた。
当社はサントニンの原草探索に奔走し、欧州産の品種に着目して日本で生育、収穫した花蕾からサントニンの結晶を抽出して含有を確認した。その品種は、当時の本社所在地の地名にちなみ「ミブヨモギ」と命名した。
原草を確保できたとはいえ、栽培地の選定、広域栽培の開始、優良品種への改良、製造設備の開発など、国産化への過程には困難な課題が山積していた。10年近い期間を費やしてその一つひとつを解決していったことで、1940年(昭和15)、回虫駆除の特効薬である国産サントニンの発売に至った。
戦中から戦後にかけての日本社会では、生活・衛生環境の悪化を背景に寄生虫、とりわけ回虫が蔓延していた。国民の回虫感染率が、地域によっては70%から80%に上ったといわれていた当時、サントニンの発売は、回虫感染で栄養失調に苦しむ患者さんにとって大きな福音となった。
このように、回虫禍に悩まされた日本であったが、昭和20年代後半にはいると回虫感染率は年を追って急速に減少し、1960年(昭和35)には15.5%にまで減少した。食料事情や衛生環境の改善もあったが、官民挙げての集団駆虫対策、とりわけ国産サントニンの増産とその薬効によるところが大きかった。

回虫感染率が減少すれば、当然のことながらサントニンの需要も減じる。また、他の駆虫剤との競争も加わり価格も急落したことから、昭和30年代に入り、一時は総売上高の9割を占めたサントニンの売り上げは急減した。医薬品は、その効き目によって病態が改善されて需要がなくなることが理想とされるが、このサントニンの消長こそくすりの理想を達成した典型的な事例ではないだろうか。